プレゼン、面接、会議……強いキャリアを創るためのホンネ対談 おちまさとプロデュース「偉人伝心」
〜スペシャリストに学ぶ!プロフェッショナル仕事術〜

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メディアという枠を超えて活躍するプロデューサーのおちまさと氏が、“偉人”と認める方に会いに行き、技を“伝心”してもらう。第3回目の偉人は、映画プロデューサーの一瀬隆重氏。日本を飛び出し、アメリカで映画プロデューサーとして成功を納めた一瀬氏は、その独自の感覚で発掘した“ジャパニーズホラー”で太平洋の両岸を震え上がらせた人物だ。映画論、クリエイティビティ観、国際感覚や社会人としての心構えまで、軽妙ながら熱意にあふれた言葉の数々に奮い立て!

先人を超えようとしないことに意味があるのか

おちまさと(以下、おち)

もともとは監督出身なんですか。

一瀬隆重(以下、一瀬)

学生映画は監督もプロデューサーも撮影も、なにからなにまで自分でやるものだったんで。だけど、プロになったきっかけはプロデューサーになろうと思ったからです。その後ひょんなことから監督もしましたが、基本はプロデューサーです。

おち

プロデューサーとして成功してやるっていう野心はありましたか?

一瀬

僕は神戸出身ですが、はじめは東京に行く考えもなくて、地元テレビ局に就職しようと思っていたんです。でも僕に会社勤めは無理だなと悟りまして。そうしたら自主映画を通じて知り合った石坂浩二さんに誘われて、22歳の時に東京に来たんです。石坂さんに雇ってもらって、石坂さんが演出する舞台の舞台監督助手をやったりしていたんですが、「このままじゃ映画が撮れない」と思うようになって。そのころ、自主映画時代に友達になっていた手塚眞(※1)さんがセゾングループの出資で映画を撮ると聞きつけて、「ギャラはいらないからプロデューサーをやらせてくれ」って頼みこんで使ってもらったのが最初です。そのあとはセゾンの作った映画会社へ入ったけどやっぱり会社勤めはあわなくて独立して、でも日本もあわないんでアメリカへ、という流れですね。

おち

「海外で成功するんだ!」と思った動機はなんだったんですか?

一瀬

そう思ってアメリカへ行ったつもりじゃなくて、日本で映画の仕事をするのが無理だと思ったから。海外で成功したいと思ったことはないですよ。言葉がしゃべれないから。英語は今でも大してしゃべれないですよ。

おち

へぇー! 意外ですね。なぜ日本でできないと思ったんですか?

一瀬

日本の映画界に入ってみたら、これが旧態依然としたものすごいムラ社会で。僕が入ったころは若いプロデューサーなんて全然いないから居心地も悪いし、ここで一生やっていくのは大変だなと。しかも当時の日本映画は不調だったし、そんなこんなで日本は無理かなと思っていたら、たまたま『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(※2)という映画を見る機会がありましてね。当時の香港映画っていうと、ブルース・リーが亡くなってからは『Mr.BOO!』(※3)とかしかないイメージで、正直軽く見てた。

おち

そういう世代ですよね、僕ら。

一瀬

ところが『チャイニーズ〜』を見て、「これは日本映画は完全に負けてる」とショックを受けたわけです。そんなときにちょうど『孔雀王』(※4)の特撮部分をやることになって、今をときめく樋口真嗣(※5)を特撮監督的なポジションで連れていって、香港で特撮パートだけ撮った。そしたら当時の日本と違って、香港では映画の仕事をしている人はみんなプライドを持っていて、家族にも尊敬されている。それがよくて、最初は香港に移住して、香港映画をやろうかなと思ったんですよ。そうこうしているうちに、今度は『帝都大戦』(※6)を自分が監督することになって、スクリーミング・マッド・ジョージ(※7)に仕事を頼みに行ったら、彼のエージェントが僕をアメリカのプロデューサーに紹介してくれて、「あなたの考えはアメリカでは当たり前だよ。こっちに来なよ」と言われたんです。

おち

日本映画界がダメなときでラッキーでしたよね。すごく盛り上がっていたら、行ってなかったかもしれないわけですし。それできっかけができて、それから……。

一瀬

英語がしゃべれないから迷ったけど、結局アメリカに行って、東映ビデオという会社がやっていた『Vアメリカ』というVシネマをやらせてもらうことになりました。初期のVアメリカは、日本人の監督と役者を使った日本の映画をアメリカで撮るものだったんですが、それじゃつまらないので、アメリカの会社にお金を出させて、監督もスタッフもアメリカ人にして、アメリカと日本の俳優を組み合わせたものを作ることにした、そこでアメリカの映画の作り方を勉強したんですよ。使った俳優は当時みんな無名だったけど、ヴィゴ・モーテンセン(※8)やヴァージニア・マドセン(※9)、ラッセル・クロウもいたな。みんなそのへんの兄ちゃんだったのに、その後、彼らが雲の上の人になったのを見ると、アメリカにはやっぱりチャンスがあるなと。日本では、落ちていく人は見るけど、上がっていく人はあまり見ないでしょ。

おち

しかもアメリカは一発でいいじゃないですか。日本だと、百発当ててもまだダメですからね。疲れますねぇ。で、そのころはもうプロデューサーとして、アメリカの監督と仕事をしながら、向こうのやり方を学んだわけですね。

一瀬

そうです。そこで、たとえばアメリカの映画業界には組合があって労働時間が決まっているとか、そういったルールを勉強したのが、『The Grudge』(※10)に活きたと思います。

おち

金銭的なものも含めて、成功しようとがんばれた原動力はなんだったんですか?

一瀬

やっぱりクリエイターにフェアに利益が分配されない限り、映画産業なんて成り立たないと思うんです。それはモチベーションとしてすごくありましたね。僕が映画の世界に入ったころなんて、「儲からなくてもいいものを作らせてやってるんだから、カネのことなんか言うな」って感じだったんだけど、みんなが映画で儲けてリッチにならないと、映画界に人が来なくなると僕は思っていたんですよ。でもそれが、今は反対に振り子が振れちゃってる。今の映画界はみんな目先のカネばっかり追い求めて、ベストセラーやテレビ連ドラの映画化とかばかりになっている。お客さんが望んでることだから仕方ないけど、映画も基本はものづくりだから、「売れればいい」というのではいかんと思うんです。

おち

なんでも2だ3だという今のハリウッドもどうかと思いますね。僕らは映画に人生を変えられたわけですけど、今はもう少なくなってしまっているのかもしれませんよね。おもしろかったけど終わったら記憶からスーッと消えて、ジェットコースターに乗ったのと変わらない。

一瀬

映画の役割が変わったといえばそれまでですけど、今だってそういう映画が作れなくなったわけじゃない。今の映画界の人たちは、二言目には「溝口健二や黒澤明は超えられない」って言うけど、だったら映画を作る意味なんてあるのかな。同じベクトルでは超えられないかもしれないけど、何かのベクトルで超えようと思わない限り、ものをつくる意味なんてなくなってしまう。それで、ただ儲かるものか趣味的なものに、不健全に二極化しちゃう。

おち

そういうことを言っていると、「変わってる」って言われそうですね。

一瀬

異端と言われますよ。でもこれが異端ってどうなの!?(笑)

※1 故・手塚治虫氏の長男で、自ら“ヴィジュアリスト”と称するアーティスト。映画監督・映像クリエーター・プロデューサーなど多彩に活躍中

※2 1987年公開の香港映画。中国の古典小説に題材を執った旧作のリメイクで、エキゾチックな映像美や高い叙情性が、世界各国の映画界に大きな衝撃を与えた

※3 1976年公開(日本では1979年)の香港映画。主演のマイケル・ホイが同様に主演した一連のライトなコメディ映画は、ストーリー上のつながりはないが、日本では『Mr.Boo! シリーズ』として知られている

※4 1988年公開の日本=香港合作映画。人気コミックが原作のSFファンタジーアクションで、主演は三上博史

※5 映画監督。特撮映画に実力を発揮し、代表作は『ローレライ』(2005)『日本沈没』(2006)『隠し砦の三悪人』(2008)など。特撮監督を務めた『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)では日本アカデミー賞特別賞を受賞している

※6 1989年公開のSF伝奇映画。荒俣宏の同名小説を原作とする映画『帝都物語』(1988)のヒットを受けて製作された続編

※7 独創的で高度なアートデザインと特殊メイク技術で、CGが普及する以前のアメリカ映画界を席巻した日本人アーティスト

※8 米俳優。『ロード・オブ・ザ・リング』三部作(2001〜2003)のアラゴルン役で世界的な知名度を得た

※9 米女優。『サイドウェイ』(2004)でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた

※10 ジャパニーズホラーブームを巻き起こした映画『呪怨』(2003)のアメリカリメイク作。2004年公開。邦題は『THE JUON/呪怨』

PROFILE『Tokyo Ochimasato Land』

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