海外キャリアの歩き方
世界各国で頑張る日本人ビジネスパーソンのキャリアリポートをお届け。文化も慣習も違う海外で働く人々のパワーを感じ、アナタのシゴトに生かそう! 第12回 ブラジル連邦共和国 青木カナさん

ブラジル連邦共和国美容師、歯科技工士、調理師……
さまざまな経験を積み、歌手として立つ

「遠回りをしたけれど、結局、1番やりたかったことを仕事にできたように思います」とはじける笑顔で答えた青木カナさんの職業は歌手。しかし、そこに至るまでの数々の職種を経験してきた。

 母親が美容室を経営していたこともあり、高校時代、すでに山野愛子美容室(現・ビューティートップヤマノ)の通信教育を受講。美容師の免許を取ったものの、母親の忙しすぎる背中を見て育った青木さんは美容師になるのをためらっていた。

「母親からはいつも『女性も手に職を持って、自立できる仕事がいい』と言われていました。でも、美容室って、年末も正月もないんですよ。晴れ着の着付け、髪を結って、1年を通しても1番忙しい。『家族の団欒』っていうのが全然なくて淋しい思いをしたから、自分が母と同じ道を歩んだら、自分の子供にも同じような思いをさせちゃうなって……」。

 そこでカナさんが選んだ職業は、歯科技工士だった。だが、狭い部屋での細かい作業が原因で、肩凝りなどひどい状態が続いた。「自分の適性をまったく考えていなかったんですよね」。その後、1年間の期間限定で母親の美容室を手伝うが、店を閉めることとなる。

「この時、24歳。将来を考え、『一番好きなことをしよう』と心に決めたんです。色々な人のサクセスストーリーを片っ端から読破しましたね」。そこで、5歳からたしなんでいたピアノ、高校時代にはガールズバンドを組んだ経験から「音楽」の道に進むことを決意。最初に見つけたのはライブハウスでのアルバイトだった。この時点では当然、自分がまさか歌手になるとは思ってもみなかった。

「ライブハウスを経営しようと、調理師免許も取得しました。でも、毎日ミュージシャンが熱狂する姿を目の当たりにしていると、演奏する側への思いが熱くなってきて……」
青木カナさん
PROFILE

歌手
青木カナさん(41歳)

1965年、東京都生まれ。高校在学中に通信教育で美容師免許を取得。歯科技工士専門学校で技工士免許を取得後、音楽の道へ。ライブハウス経営を目指し、調理師免許を取得。1995年単独ブラジルへ渡り、サンパウロ州立トム・ジョビン自由音楽大学へ入学。数々の賞を受賞しながらライブ活動やギター教室、歌唱指導を行う。青木カナ公式HPのほか、ブログもある

コンクール

コンクールでの1コマ。現在は仲の良い3人のミュージシャンと4+1というバンドで活動

 恩師であるギタリストの廣木光一氏がアンサンブル教室を開講したのをきっかけに、本格的に歌を始めるも、力みすぎる欠点があった。そこで「何か楽になれる音楽を」と思っていた時に出会ったのがトム・ジョビンの『ウエーブ』というボサノバだった。その後、ブラジルの歌手エリス・レジーナの曲が好きになり、練習をしていたところ、廣木氏もエリスの大ファンだったことから、全国ツアーのヴォーカルに大抜擢。この経験を通して「私の中で何かが変わった」と、振り返る。

 1995年1月15日、歌の勉強のためにと、トランク1つでブラジル・サンパウロへ旅立った。日本食レストランで働きながら、翌年、音楽大学へ入学。4年間、昼間は勉強、夜は日本食レストランでアルバイトをしながら、週末にはブラジルの生バンドが入っている店へギターを持って通い、飛び入りセッションも行った。この頃には、作曲もするようになり「曲を書いているのだけど、誰か詩を書ける人、知らない?」と知り合いに紹介されたのが、今の夫である作詞家のレオ・ノゲイラさんである。

 1999年7月には、ブラジルポピュラーミュージックの作曲コンクールで2人の合作曲『バイバイ・ジャポン』が優勝。2001年には「ヒベロンプレト子供の為の音楽祭」でも2人で作った『バロン』が優勝した。そんな青木さんの日本での代表作となるのが『帰ろうかな』。2年半前、日本でマスターカードのCMに使われた。同曲はドキュメンタリー映画『わたしの季節』のテーマソングにもなっている。 「でも、歌手だけで食べていくのは無理。優勝した時などは多少まとまったお金が入るものの、ライブ収入だけでは、生活は維持できません。ブラジルでのライブは、手弁当というケースも多いんですよ」

 それを補う意味もあり、青木さんはサンパウロのカルチャー&進学塾でギターや歌を教えている。大人から子供まで、生徒の要望にあわせてボサノバや世界のポピュラー音楽、クラシックギター曲など、ジャンルを問わずに指導。ブラジルの歌を教える時は日本語訳を付けるなど、意味を理解させ、ブラジル人が聞いても、何を歌っているかが分かるようにポルトガル語撥音にするなど工夫を凝らしている。

 最初の5年間は日本へ帰れなかったが、2000年からは毎年帰国。着実にブラジル生活の基盤を整えつつある。「両方で活動できるのが理想ですが、基本はブラジル。あまり離れると、忘れられちゃいますからね」と笑った。

取材・文/マツモト純子

ここが困った海外生活

 普段、作詞はしないのですが、『帰ろうかな』だけは私が日本語の歌詞を付けました。実はこれ、日本へ帰ろうとコツコツと貯めていたお金で、4年ぶりに帰ろうと思っていたんです。その矢先、ブラジル通貨のレアルが変動し、ドルと円に対し一挙に半分ぐらいの価値に暴落! 帰るに帰れなくなってしまった時に作った歌詞なんですよ。一夜にして、貨幣価値が半分に下がるなんて……。社会や経済の安定していない国ならではですよね。
 だいたい日本へ帰ると、3カ月ぐらいはいるのですが、一度サンパウロの自宅に泥棒が入って、コンピュータなどたくさんの物が持っていかれていました。これまた、ブラジルでの洗礼を受けたというか……。

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